2022-09-28 勘違いしたまま異質な世界を見る
最後から2章目にしてやっと気づいたのだけれど、これはあくまでも「短編集」であったのだった。私はなぜかずっとどの章の「私」も同じ人なのかと思いこんでいた。夢や、ちょっとしたパラレルワールドのようなものが混ざり込んでいるけれどこの物語を通して存在する「私」はあくまでも同じ人物である、と。
最後から2章目の主人公が年配の男性であることでやっと、これはひと繋がりの物語ではなく「短編集」だったのだと気づいた。今までとんちんかんな感想をコミュニティに書いてしまっていた…。ちょっと恥ずかしい。
こんな間違いが起きたことのひとつは、短編集は短編のうちどれかひとつが本のタイトルになると思うのだけれど、この本の場合短編の中に「砂漠が街に入りこんだ日」というタイトルはない。だから「砂漠が街に入りこんだ日」が物語全体のタイトルで、各タイトルは章のタイトルなのだと思いこんでいたのだった。
短編集であるかもしれない可能性を全く考えていたわけではない。「8つのわたしの物語」というようなことを訳者の方も書いてらしたし、耳が聞こえなくなるタイミングが説明できなかったり、いる国がばらばらだったり、心に残っていた友人というのは雪の日の人なのかテニスの人なのか…?
でも心のどこかで、あちこちに散りばめられた伏線がいつか緩やかに回収されるのだろうと期待しながら読んでいた。
パリに来たばかりの時にパレ・ド・トーキョーという美術館に何の予備知識も無く入ったことがあって、その時のことを思い出す。
友人に誘われて行ったのだったか、どんな展示が行われているのか知らないままに行った。
まだフランス語がまったくできない時だったから作品の説明もタイトルも作者も読めずよく分からない。グループ展のようにテーマが一貫しているのか、もしくは同じ作家によるものなのか、色んな作品を寄せ集めて展示している場所であるのか、基本的な情報が受け取れないままだった。
パレ・ド・トーキョーに行ったことがある人は分かると思うけれどあそこは広くて道順も記されておらず、好きな階を好きな順番に見ることができる(パレ・ド・トーキョーだけでなくこちらの美術館には順路も特に設定されない場所が多い)。落ちてくる砂を被りながら自動演奏されるピアノや、じ…ぱち、じ…ぱち、と鳴る蛍光灯の音を利用して演奏がされる部屋、ある円形の部屋では誰かがひとり語りをしていてそれがパフォーマーによるものなのかただの練習場を覗き見てしまったのかもよく分からない。
その時には壁も暗い色に塗られていて(あとで別の展示を見に行って分かったこと。それまで私は美術館自体、箱自体が展示によって姿を変えることをあまり経験したことがなかった)、打ち捨てられた工場のような雰囲気だったので、一体どこまでが展示場で、どこからが入り込んではいけない舞台裏なのかもわからず、しまいには階段についている普通の蛍光灯すら「これは展示の一部…?」と訝しんで見るようになっていた。
分からないけれどとにかく目の前にあるものをひとつずつ解釈しようとして、端っこから少しずつ紐解いてゆく、しかし結局自分の中での解釈で捉えるしかない、建物の探検のような時間になったのだった。
『砂漠が街に入りこんだ日』を読んだ経験もこれに似ている。
日本語で読める本ならきっと、前もって情報を仕入れていたり本の後ろのあらすじから全容をなんとなく把握していたり、この本ぜんたいに広く、光を当ててみることができただろう。
でも私はひとつの文章の中にも分からない単語が出てくるような状態で読んだから、まさに、足元だけを懐中電灯で照らすような、手の届くの壁を範囲を注意深く指で辿るような、そんな進み方で読んだ。屋敷の全貌はとてもじゃないけれど見通せない。
見通せないその暗闇で鼻孔をひろげ、耳を澄ませながら、ほんの僅かな色や温度をたどりながら進んだ。
だから各章にはそれぞれの五感に関わる感覚が濃く残った。
静けさや、冷たい色、違和感のあるものを口にしたり、味のないものを飲み下したり、爆発するような音、圧迫するような賑やかさのなかで聞き分けられないのは聴こえないのと同じ、誰の顔も見分けられない、名前のないひと、もの。
知っている単語や知らない単語を渡ってゆく中で、文章は単語の順列組み合わせなんだなということをあるときに思って、急に文章が分解されたような気がした。物語がレゴみたいにざらっと撒き散らされたみたいに。でも、自分が指で注意深くたどってきたときに読み取った(読み取ろうとした)感触だけは豊かに残っていて、それと、細切れになった単語とのあいだにある大きな乖離に不思議を覚えたのだった。
日本語で読んだなら、こんな読書はできなかっただろう。
そして、きっともう一度読んだとしても、一度目と同じ読書体験はできない。
私にはこの物語が、ほんとうにただの短編集なのか、こんな感触を残そうという意図から書かれたものなのか判断できない。
もう二度と、最初に読んだ時と同じ体験はできないのだから、どうしたって客観的になりようがないのだった。
パレ・ド・トーキョーはいつも興味深い展示をしているけれど、あの最初の体験以上の鮮やかさを、わたしは一度も見出すことができない。
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なにもかもを拒絶するモナにだんだん息が詰まるような気持ちになってくる。
ある時代、こういう雰囲気が若者を包んでもいたのかもしれない。